恥知らずな政治家ばかりだが、その中でも群を抜いて恥知らずな政治家がいる。その一人は、自民党総裁の谷垣禎一氏だ。
与党の実力政治家としてならした時でさえ、ボスと抱いた政治家は「Kの乱」と言われた森内閣への反乱を企て、見事に失敗してしまった。K氏の政局音痴がそのまま、谷垣氏の恥知らずな行動につながっているのかもしれない。
谷垣氏の恥知らずさを象徴するのは、野田内閣2閣僚に対する問責決議と、その後対応だ。なるほど、問責された二人の大臣に問題がないではない。しかし問題視された点も、前田武志国土交通相の場合、自民党候補と激しい選挙戦を繰り広げた民主党候補に対する支援要請だったという点を考えれば、自民党による意趣返しという側面はぬぐえない。前田大臣の秘書のミスという説明も、あながち単なる言い訳とは思えない部分もある。問責にされるに値する問題化といえば、どうにも腑に落ちないところが多い。
田中大臣に関しては、何もいうまい。資質には多いに問題がある。だが資質に問題ありと声を大にしていう自民党にしても、資質に多いに問題を抱える人物が大臣になっている事例は数え切れないのだ。今でも、自民党の重要ポストを占める御仁の中に、その資質を疑われる人物がいる。こちらはそんなことを言っても名、のレベル。またこの大臣に関しては、今話題の小沢一郎氏サイドからの推薦という事も無視できない。能力のないグループから特に能力のない人物が大臣に推薦されただけなのか・・・・。いただけないことは確かだが、問責するには、根拠が薄い。
だから、自民党の問責可決に、他の野党も躊躇したのだ。可決された結果、野田政権がその結果に応じて、二人の大臣を交代させれば、谷垣氏も恥知らずと罵られなくとも済んだのに、そうすればしたで野田政権に対する批判も強くなるため、野田首相は交代させようとしない。意地の張り合いになっているのだが、理は野田首相にあるように思える。
谷垣氏は、問責決議を可決したため、却って問責閣僚のいる委員会審議に応じられずにいる。現在、問題は山積している。竜巻の問題、ホテル火災の問題など国民関活に直接関係する問題は多い。さらには中国との間の尖閣諸島問題など、主権に絡む問題があるにもかかわらず、意地を張って可決した問責決議のために、すべての審議をすることができずにいる。谷垣氏は本当に、これが国民の支持を得られることだと信じているのだろうか。少しでも理解のある国民であれば、ため息しかでないということに気付きもしないのだろうか。
能吏という評判はまさに正確だった。役人レベルでは優秀であっても、国家を担う政治家としてはあまりに器が小さすぎた。小沢一郎という政治家も同様だが、国家を担う政治家には、信念がなければならない。その信念が、谷垣氏には見られない。だから恥知らずなことを繰り返してしまう。
小沢一郎元民主党代表(元自民党幹事長)の野田政権批判が止まらない。小沢氏による野田政権批判にはもっともなところもあるが、その大半は正論からは逸脱した意図に基づく物のように思える。
消費税増税論議に関して、「消費税を上げる前にするべきことがある」と批判する。そのとおり。そのとおりだ。前回の選挙のとき、民主党は財政再建を掲げ、無駄な支出を削りることで財政を立て直すと主張していた。それでもできない時には消費税を挙げざるを得ないということもいっていた。だから、歳出の無駄な部分をカットしない現在、消費税を上げることは、小沢の主張のとおり、野田政権は批判されて仕方ない。
だが民主党政権、つまり鳩山政権が樹立した時の民主党幹事長は小沢一郎氏だ。党務を担当していたと言い逃れするつもりなのだろうが、与党の幹事長にいながら「私には関係ない」との態度をとる小沢氏は、無責任だ。あの時、無駄な支出を削減する努力をしたのか。してはいなかったではないか。政権与党になった旨味を独り占めにしようとしていたのは誰なのか。鳩山政権でしたことは、小沢幹事長(当時)にも連帯責任がある。にもかかわらず、鳩山由紀夫元首相に責任を覆い被せるだけで、みずからは知らんぶりを決め込む。だから信用できない。
民主党の議員の中には、「この国難を乗り切れるのは小沢先生しかいない」と言い切る輩がいる。国民の誰が、小沢氏にこれからの日本の行く末を任せようと考えているというのだろうか。確かに、現在の裁判は、検察の無理強いの結果であり、刑事責任を問えるような事件ではない。しかし今回の事件の範囲の中でも、事件が発生した後の小沢氏の対応を見ていても、小沢氏が国民の納得を得られる説明をしているとは到底思えない。検察の捜査中は「捜査中だから」、操作を終え不起訴になったらそれまでの検察批判を棚に上げて「検察が不起訴に下のだから無実だ」と。みずからは何ら説明をしていない。説明をした内容の中でも、刑事責任を問うにはあまりに軽微ではあるが、一般の国民であれば、税務署が即座に贈与税を課税してしまうようなことを話している。どうにも腑に落ちないことが多すぎるのだ。
検察が描いた筋書きではなく、その筋書きを否定するために語る内容の中に、金権体質が透けて見える。自民党の多くの議員も同様なので、あまりそうした部分に目が行かないのだろうが、カネにかんするあまりにエグイ行動が透けて見えてくるのだ。
やるべきことをせず、やったことの責任も取らず、他人の責任だけには執拗に批判するその体質に、どこの誰が信頼を置くというのだろうか。そうした人物に信頼を置く神経と精神構造が、筆者には理解できない。
今すぐ、野田首相は衆院を解散して、国民の信を問うべきだ。あほなことを言い募る輩は落選させる。まともなことをしている政治家だけを当選させる。そうした国民の判断を仰ぎ、国政に反映させるべきだ。
民主党は大敗するだろう。自民党も大敗するだろう。第三局が現れてくるかもしれない。しかしそれは自らの侵したことに対する責任だ。大阪のヒットラーが勢力を伸ばすだろうが、そのときは大変だ。しかしそれも国民の判断。衆愚? それも仕方ないことだ。
町内会に出席した時、この国の組織は個人の意見を言わさない圧力をかけるのだと実感させられた。約3時間の会合での会話は、職場で話せば5分以内で話す内容でしかなかった。決めたのは、町内会費を値上げするかしないか、会費を月単位で集めるか年単位で集めるか、の2点のみ。すでに会長さんをはじめ役員で合意されていたようなので、どのような反対意見を言おうとも、色々な脇道にそれながらも結局は既に合意されている内容に落ち着くようになっていた。意見を言えば、「大学に行った者は違う」というワケの分からない嫌味を喰らうことになり、発言しない方がよいのだと思い知らされた。
「和」という言葉は便利だ。集団の調和を保て、という意味で、決して悪いことではない。しかし日本社会の中では、「和」を保てという意味は、「年長者や目上の者の言うことを、何も言わずに従え」ということを強制することを意味している。決して額面どおりにとってはならないのだ。
職場でも「和を保て」とか、「みんなと仲良くしろ」だとか言われるが、その意味するところは、「上司のいうことに一切反対意見を言わず、黙って従え」ということと、「会社の決定事項にはどのようなものでも無条件に従え」というものだ。学校では労働は対価を受け取る限りにおいて提供しろと学んだと思うが、現実は、サービス残業という無給労働を強制されることが当たり前、当然のことであり、サービス残業をしない奴は「職場の和を乱すこと」として批判の対象になる。
現実を直視し、現実に従うことをよしとするか、現実に抗らうことをよしとするか・・・・・・。難しい判断だ。
集団を重視することを否定する気はない。集団としてまとまることにメリットがあることも多いからだ。しかし現在の日本社会には、集団を重視する、つまり和を重視するということを口実にして、個人の利益を犠牲にすることを強制する風土が存在する。上司・部下、経営者・労働者、親会社・子会社など、和を重視するのであれば、両者の関係は基本的に対等であり、相手を思いやることで和が保てるものなのに、両者の関係を上下関係に置き換え、「上」の者が「下」の者に一方的かつ強権的に指示を出しその指示に従うことを強制する関係が作り出されている。それを「和」と呼び正当化しようとしている。おぞましくも浅ましいことだけれども、それほどまでに社会の至るところが疲弊してしまっているのだろう。
現代日本の基礎が、基本的人権の尊重とするのであれば、個人の意見は尊重されるべきだ。個人の利益を犠牲にしなければならないときには、相当の対価が支払われるべきだ。対価がない個人利益の提供は、犯罪的行為なのだ。
「和」。個人犠牲を個人に強制することになるこの言葉は、今の日本社会を象徴している。「和」を重視すると言い放つ人物が、平気で家庭に戻ると妻に暴力を振るう。日常生活の中には女性に対するさまざまな強制が存在するが、その中でも家庭内暴力はその際たるものだ。
ギスギスした社会をどうしたらよいのだろうか。意見を言わさない風土が強い日本社会は、今後、どうなっていくのだろうか。他国と比較することは全く意味がない。今の日本の問題は、日本人が考えていかなければならない問題だ。簡単に解などえられないが、考え続けていく必要はある。
野球は「野球道」という人間の生き方を説き、それを実践するスポーツなのだという。その一方で、ベースボールはエンターテイメントであり、見ている人を楽しませるスポーツなのだそうだ。野球とベースボールの違いは、ある意味で、そのまま日本のプロ野球とアメリカの大リーグとの差に当てはまるようだ。
日本のプロ野球を見ていて「面白い」と思ったことはない。アンチ巨人の感情が強いため、巨人が負けていれば「フッフッフッ・・・・」とあまり人様にお見せしたくない腹黒い顔で笑ってしまう。ただそれでもニュース番組の最後に流れるスポーツニュースの中での話しだ。野球場に行っくことは、付き合いで仕方なく行くくらいで、ここ数年、足を運ばずに済んでいる。見ていても楽しくないのだ。
「野球道」を実践している人(野球選手)の修行を見ていて楽しいはずもない。なにせ、こちらも人間があまりで来ていないので、人様の修行など関心も持てない。単に、頑張れ、という声援のみ。それをわざわざ金を出してまで見ようとは思えない。
またテレビでごく稀に見るプロ野球も、本当に面白くない。野球そのものは面白いのかもしれないが、その背景にある企業のエゴと傲慢さ、特に球団の盟主を気取る巨人のエゴと傲慢さ、巨人の現実的な経営者の傲慢さと尊大さが、あまりにも目に余り、巨人の試合なのに、それが思い出され、とても不愉快になる。
高校野球を美化しようとする人々も多いが、高校野球にしてもその裏で蠢くカネの亡者たちの姿が透けて見え、プロ野球と同様、反吐が出そうになる。時々、進学校が出てくると、その進学校を応援したくなる。そういうところには、ほとんどカネの亡者たちの姿が透けて見えないからだ。
サッカーと比較したとき、野球は企業の営利活動に非常に影響されていることがわかる。サッカーにしてもカネが動かないわけではない。しかしそのカネの動きは、理解できるものだ。一方、野球の分野で動くカネは、何だが怪しいもののように思えてくる。不思議でもあるが、その理由は明らかだ。
そうしたウラに思いを馳せる必要などあるはずもない。しかしどうしてもそれが透けて見え、カネの亡者振りに反吐が出るような思いが付きまとう。日本一の発行部数を誇る新聞社の社主でありながら、そして政治では偉そうな事を言いながら、野球でも、利己主義で傲慢で尊大な物言いをする御仁の行状を見ていると、なにやら最近の日本を象徴しているようにも思える。
一部の人が利己的に振舞う様である。そういう人こそ、日本の美徳と言いながら若い者が、老人に盲目的に従うことを求める。単なるアホだ。
そうしたアホが支配する野球のどこが面白いというのか。理解できない。今ではプロ野球中継が始まると、他に見る番組がなければ、即座にテレビを消してしまう。サッカーだとそれなりに見てしまうのに、野球となると・・・・。高校野球も同じ。どこの高校が優勝したのかも、どこの県の代表なのかも、知らない。有名校でしている選手には金が支払われていることが多いと聞いているから、なおさら、関心が遠のく。
むしろアメリカ式にエンターテイメントとして割り切ってしまえばいいのに。この踏ん切りの悪さがさらに野球人気を萎ませ続けている。
そういえば、小学校のグランドでソフトボールをしている子どもたちの姿を当分見ていないのは気のせいなのだろうか?
泊原発が定期検査に入り、日本に稼動している原子力発電所はなくなった。現実の問題として、脱原子力を達成したのだけれど、本当にこれでよいのだろうか。「原子力は危険だ」という掛け声だけで、どのように危険なのか、なぜ危険なのかに関する真っ当な議論がないまま、脱原発をなし崩し的に達成してしまっている。これでよいのか。
なし崩し的に達成した脱原発は、今後、世論が変れば容易に、「なし崩し的に」原子力発電所を稼動させてしまうことになる。きちんと筋道を立てて、原子力の是非を議論しないまま原子力政策を推進してきたのが日本の原子力政策であった。同じ徹を、脱原発でも踏むのはあまりに稚拙だ。風向きで容易に政策を変更してしまう余地を残すことになるのだ。
脱原発を主張する人々は、決して今の現状を「是」としてはならない。なぜ、脱原発を目指さなければならないのか、脱原発を達成させるプロセスはどのようにするのか、まだまだ議論しなければならない点は多い。
また原子力発電をこっそりと推進したいと考えている人々のことにも注意しなければならない。基本的に脱原発を目指そうとする枝野経産大臣ですら、発言がブレているように見えるのは、それだけ原子力推進派の影響力が強いと言うことだ。財界人の発言などでは、「日本経済成長のマイナス要因」などという言葉で、暗に原子力発電の再開を後押ししている。今後、計画停電が頻発し、電力供給に対する不満が一般国民の間に蓄積したとき、容易に、「原子力発電を再開しろ」という世論につながる恐れは大きい。
現在の段階では、まだまだ自然エネルギーに依存するには無理がある。しかも環境省など自然保護を名目にした地熱発電に関する制約を解こうという素振りがない。杞憂だといいのだが、環境省も財界や経済産業省などのための思惑で、地熱発電の進展を妨げようとしているのではないか、とも思ってしまう。おおぴらに脱原発を批判しなくとも、こっそりとそして着実に脱原発の世論を崩すことはできるのだ。
だからこそ、明確にそして公開の場での脱原発に関する議論を今、進めるべきなのだ。こっそりとした決定は、こっそりと覆されるものだ。公開の場で、明確に脱原発に向かう方針を決定し、そのプロセスを明らかにすることで、脱原発に抗する揺り戻しに抗することができるのだ。
今、脱原発に関する議論をしないでどうするのだ。ドイツがしたように、数年かけて脱原発をするという方法が、最も現実的な方策だろう。これまでの日本のエネルギー政策が、決して自然エネルギーを活用しようとする方針を持たなかっただけに、原子力発電から自然エネルギー発電にシフトしていく時間はどうしても必要だ。その期間を、2年にするのか、5年にするのか、10年にするのかは、公の議論の中で議論すればよいことだ。資源エネルギー発電の現状と、どのような政策を採ることで、どれだけ比重を高めることができるのか、そして、安定的な電力供給のためには、どのような体制整備を進めるべきなのか、電力会社の独占を解クコとで生じる混乱をどのようにして解消するのか、検討しなければならない課題は山積している。
現在はこうした課題に対して一切、答えることなく、単に「原発反対」だけだ。それでは推進派に口実を与えるだけだ。議論をすべきだ。